35になってしまいました
また、こちらへの投稿をサボってしまった。
いつの間にか誕生日を迎えていました。
また一つトシをとれたことを関係各位の皆様方、特に私の妻に感謝いたします。
「社会人の常識」、この言葉と、この言葉を発する人に対して嫌悪感を持つことがある。常識とは、客観的な視点から定義されているような感じなのだが、実際は主観的な定義の集合体である。だって誰も定義してないじゃん、「社会人の常識」って。
ここ数年、この言葉に必要以上にとらわれすぎてしまっている。自分の行為に対してこの言葉で人に注意されると気持ち悪くなるのだが、逆に相手の行為に対して何か不快感を持ったとき、その不快感を言葉にする際に出ているのが「これは社会人の常識じゃないか?」というのだ。自分の語彙能力のなさ、思考の短絡さにほとほと嫌気がさす。
そもそも、このどのようにやるかというのは、今の自分にとって本質的なことではないのだ。大切なのは、何をやるか、どのようなアウトプットを残したか、ということである。人の良さだけでは、この世界、勝ち残れないのだ。この本質的ではないところに逡巡して、やるべきことをやっていない気がする。ほんと、ダメだと思う。
このトシになって今のような職にいるということは、運でも何でもなく、自分が甘いところもあるのだなと感じる。前職でも感じていたのだが、研究というか業務というか(研究業務という用語もあるけど)にいくつか関わらせてもらえるのだけど、その数が一定を超えるとおしりばかり気になり出す。ここでの「おしり」は、打ち合わせ日時や報告書〆切など、何かしら成果を出さなければいけないとき。おしりばかりに気をとられると、直前まで何もしなくてもまあ何とかなるよという状態になり、いざ成果を出してみると、これまでの方法論の焼き直し、もしくは新たな試みの失敗、しかでなくなるんだよね。
優先順位をつけてやればいいじゃん、という話もあるんだけど、全部やらなければダメじゃん。自分にとって優先順位の高低がつけられたとしても、相手側から見て、全体的な視点から見て低い優先順位でいいの?(参考)という話である。
そうなるともう自己完結型の研究、もしくは自分が主体的に行うべき研究にとられる時間を削らなければならないわけで、そうなると自分が筆頭著者の研究業績がなくなっていくのだ。これが近年の研究業績の生産不振を招いている要因の一つである。
一方で家庭の存在は重要である。子供の笑顔が心のささくれを癒やしてくれるなんて甘い話ではない。自分の進路、生き方などについて一番相談できるのは自分の妻なのである。どの組織にも属さず職場を流転しながら、その場にある知見を吸収し、その場にあった研究を進めていく生き方を進めていこうとする(おそらくそうなると思う)自分にとって、その存在は本当に大きい。それゆえ、家庭の時間を犠牲にするなんて生き方は自分にはどだい無理な話なのである。
そうなると、睡眠時間を削るなど身を削りながらがんばっていくしかない。ここ数年で太ってしまった身体では乗り切れないだろう。今日から駅までの往復は徒歩(20分弱)でがんばっていきたい。←ここが言いたかったところ。
これからもよろしくお願いします。











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